遍照寺について
歴史 / 灯籠流し / 重要文化財
遍照寺の歴史・由緒
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あらまし
遍照寺は十世紀末(989年)平安時代中期、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものです。
嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、池畔には多宝塔・釣殿等・数々の堂宇が並ぶ広大な寺院でありました。
しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化しました。奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政十三年舜乗律師により復興されました。
昭和に収蔵庫、護摩堂。平成九年客殿、庫裡を建立し現容となりました。
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寛朝僧正の法力
天元四年(九八一)円融天皇病の折、宮中で病気平癒の祈祷を修すると眼前に不動明王が顕現し帝の病がたちどころに癒えたと云います。
よって歴代朝廷の帰依篤く、円融天皇は寛朝僧正のもとで出家された程です。
又一条天皇の永延元年(九八七)五月干ばつ著しき折、勅を承け六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め雨を祈ると翌日雷鳴轟き大雨になったとの事です。
寛朝僧正は遍照寺で盛んに灌頂の儀式を行い、仁和寺益信より伝わる密教の法流を広め、この法流は野沢両派として東密の根本となり「広沢流」と呼ばれるようになりました。
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『宇治拾遺物語』にみる寛朝僧正と遍照寺
寛朝僧正や遍照寺にまつわる逸話を『宇治拾遺物語』にみることができます。
同様のお話は『今昔物語』にもおさめられています。
寛朝僧正勇力ノ事
(宇治拾遺物語 14-2より)
寛朝僧正が仁和寺の別当であった時、修理中の建物現場で夕刻追剥に襲われかけた。
寛朝僧正が二蹴すると、追剥は消えてしまい、下部達が探すと、足場に追剥が引っ掛かっていた。降ろしてやり自身の着ていた厚手の衣を与え逃してやったと云う。
力持ち而もなさけ深いひととなりが分る。
清明蛙を潰スノ事
(宇治拾遺物語 11-3より)
陰陽師安倍晴明が教えを請おうと広沢遍照寺へ寛朝僧正を訪ねた折、若い僧達に呪術を請われた。
晴明は一枚の葉を蛙に落とし、蛙を潰して見せたと云う。
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源氏物語ゆかりの地
-恋の舞台-
紫式部が二十歳の頃、村上天皇の子、具平親王が雑仕係の大顔を伴い、中秋の名月の夜お忍びで遠縁に当たる寛朝僧正の住む遍照寺へ出かけられました。
月見の最中、大顔が突然物怪に取憑かれ急死。具平親王の又従兄妹である式部にとってこれは衝撃的な事件でありました。
そしてこれが源氏物語「夕顔」の基となったとも云われております。
灯籠流し(8月16日)
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灯籠流しのようす
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広沢池について
灯篭流しを行う広沢池は、かつて月見の名所として名をはせ古来大宮人の往来がありました。
彼らは月見堂で月を楽しみ詩歌を詠んだといいます。
月見堂は現存しませんが、彼らの残した歌を手がかりに当時の月景色に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
いにしえの人は汀に影絶えて月のみすめる廣澤池 (源頼政) 廣澤の池に宿れる月影や昔を照す鏡なるらん (後鳥羽法皇) 名月や池をめぐりて夜もすがら (芭蕉) こころざし深く汲みてし廣澤の流れは末も絶えじとぞおもふ (後宇多天皇)
重要文化財・寺宝
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十一面観世音立像(本尊・国指定重要文化財)
木造
989年創建時に安置
作者は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の作者定朝の師(父)・康尚と伝えられる
穏やかで慈悲に溢れる優しいまなざし
指先の繊細な表情
しなやかな体躯を思わせる衣紋の流れ
右足を心なしか前に出し
我々に寄り添い
救いの手を差し伸べようとして下さる様は
いいようのない温かみと安らぎに包み込まれ
清浄の世界に入り込んだような
不思議な感覚をもたらせて下さいます
不動明王坐像(国指定重要文化財)
木造
989年創建時に安置
十一面観世音立像と同じく康尚作と伝えられる
遍照寺の開祖・寛朝僧正が平将門の乱平定のため下総の国(こんにちの千葉県)へ奉じられた不動明王(成田不動尊)と一木二体となる霊尊 「広沢の赤不動さん」と呼ばれ地域の方々を中心に長く親しんでいただいております
吞舟の図(寺宝)
江戸後期
早朝、水辺で想い人を待ちながら砧(きぬた)を打つ女性の姿が描かれている。 頭上には有明の月が。傍らの松の木(待来)には朱く熟した烏瓜が絡んでいる。 待人はどんな人物なのだろう…
竹虎図(寺宝)
江戸後期
狩野探雪筆
虎の実物を見たことのない時代。 虎の頭はなんと豹柄、背中と胴は虎柄。 太く大胆な線で描かれた竹とは対照的に虎は猫の様に可愛らしく描かれている。 漫画のように大きく描かれた眼は少しおどけているようにも見える。 前脚後脚の着地部分を太く大きく描いたことで虎としての存在感を増している。